いろいろあります

毎日のいろいろあること。面白い夫と元気な息子の3人暮らし

【映画】パパが遺した物語 ネタバレ 感想

こんにちは、やのひろです。

今日は「パパが遺した物語」を観てきました。

 

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それではネタバレを含む感想行きます!

 

あらすじ

1989年のニューヨーク。

作家のジェイクは妻と小さな娘の3人とで幸せに暮らしていたが

ある日自分が運転する車で事故を起こし

妻を失い自身も精神的な病と発作を患ってしまう。

しばらく入院して治療にあたるため娘のケイティを妻の姉に預けるが

退院後その姉夫婦がケイティを引き取りたいと言い出す。

娘を失いたくないジェイクはヒット作を生み出そうと躍起になるが・・・

 

一方2014年。

成長したケイティは大学で心理学を学んでいた。

人と深く関わることのできない彼女は男あそびを繰り返し

自身が抱える心の闇に苦しめられていた。

そんな時、父が書いた物語が好きだという男性キャメロンに出会って・・・

 

良い話、良い俳優、だけど・・・

普段はなるべくポジティブな面を見るようにしてるのですが

今日は残念ポイント多めな感想になります。

この映画が好きだった方には不愉快かもしれません、ごめんなさい。

でも残念な映画を見るから素晴らしい映画にも気づけるワケなのでね。

素直に感想をつづっていきます。

 

ストーリーは、美しいです。

親子愛。誰の心にも琴線のあるテーマですね。

しかもタイトルに「遺した」ってあるとおり

絶対にパパは死んじゃってますからね。

こりゃもう人生論的な感動テーマがあるだろうと分かります。

 

俳優さんも、有名です。

ラッセル・クロウアマンダ・セイフライドなんて

どちらか一方の主演でも見たいと思うのに共演とは!

しかもこの二人と言えばレ・ミゼラブル(^^)

どんな絡みになるんだろう~、と思ってました。

 

しかしいざ見てみると。

私はイマイチでした。全くジンとしなかった。

こういう映画は大体泣いちゃうのですけども

珍しくうるっともしませんでした。

 

物語に入り込もうと思っても

醒めてしまうシーンが多くてちっとも揺さぶられない。

ずっと、どうしてなんだろう?と思いながら見てました。

 

監督?編集?脚本?

こんなに良い素材があるのに何故入り込めないのか。

それいはシーンとシーンの流れや

カットとカットの繋がりが

自然に感じられなかったから、と結論付けました。

 

凄く良い人が良い話をしてるのにつまらない、みたいなものです。

話すテンポ、言葉、抑揚などの話し方の所為で詰まらない時。

同じ話でも違う人が話せばもっと面白いのに、っていうのに似てました。

 

あくまで私にとってはそうだった、というだけですけどね。

あの流れでグッときが人ももちろんいらしたのだろうとは思います。

 

例えば、ラスト手前でケイティが叔母さんとお茶を飲むシーン。

 

ケイティは別れたキャメロンに会いに行ったものの諦めてしまい、

叔母さんは離婚して、25年経ってるのかな、こっちも?

とにかく二人とも愛に破れてしんみりとお茶を飲んでいます。

 

これは成長したケイティが自分の保護者といる唯一のシーンでした。

 

それまで大人のケイティはいつも一人で

彼女がどうやって生きて来たのか、生きているのか、説明されてません。

けれどもパパが亡くなった後は

離婚した叔母がケイティを育てたと思われます。

つまり娘と母代わりとの場面なわけですね。

 

そんな人と終盤に差し掛かってようやく向き合っている。。

短いシーンでしたがケイティが自分の成長過程と直面出来たという

重要な意味を持つ場面だったと思います。

 

そこで叔母さんはこう言います。

「男は愛が無くても生きていけるのよ。でも女は違うわ」

そして、それをじっと見つめるケイティ。

 

しゅん・・・。

そうなのかな。。キャメロンもそんな人なのかな。。

でもパパは確かにケイティを愛していたよ。。

ケイティに愛をくれる人は現れないのかな・・・

 

そう思ってみていると次のシーンはケイティの家の前。

ふと見るとキャメロンが階段に座っています。

待っててくれたのですね。

泣きだすケイティ。抱き寄せるキャメロン。

 

 

ここで映画は終わりです!えええええええ!!

意味深な叔母さんのセリフなんだったの!?

 

親代わりだった人が言った「男に愛はいらないのよ」

を打ち消すにはあまりにあっさりしたエンディングでした。

キャメロンはそんな男じゃなかったと思うには説明が足りません。

 

しかし彼が待っててくれるシーン自体は美しかった。

だとしたら、叔母さんのシーンは

もっと前にあれば良かったんじゃないかと

素人ながら思います。

 

例えば、ケイティがキャメロンに会いに行く前とか。

 

ケイティはキャメロンと別れてしまった、自分が悪いと分かっている、

しばらく家に引きこもる、何もできない・・・

 

そんな時叔母さんに会いに行く。

滅多に近寄らない人だけど、本当に愛した人を失った今

とにかく誰か素直になれる人に会いたくて。

 

色々あったけど姪の自分を育ててくれた人。

自分自身も家族のことで傷ついた人。

そんな彼女がくれたアドバイスは「男に愛はいらないのよ」

慰めとも諦めともとれる言葉です。

 

でもケイティはやっぱり諦められない。

自分は女だから、愛が必要だから、キャメロンに会いに行く。

勇気を振り絞って行ったけども怖気づいて引き返してしまう。

もうだめ・・・と思った時に聞こえる思い出の曲。

パパに会いたい・・・!

絶望的な気持ちで岐路に着くと・・・そこに愛する人が。

 

キャメロンはケイティにとって

最高のパートナーに、そしてパパに代わる愛情をくれる人に

なってくれたわけですね、めでたしめでたし・・・

 

この方が美しかったと思います。

叔母さんの悲しいセリフも昇華されると思う。

なんであのエンディングの直前に叔母さんのシーン入れたんだろう?

恐らくは落差を使って印象的にしたかったのでしょうけど

私にはチグハグに感じられてイマイチでした。

 

それぞれは素晴らしい素材だったのだから

もっと上手く組み立てれば良い映画になったと思うんだけどな。。

高級食材をたくさん入れたら味がまとまりませんでした、

というような感じの映画だと思いました。

 

こうなるのはどこの影響が色濃いのでしょう?

監督?編集?それとも脚本??

映画を作る過程を知らないから分かりませんけれども・・・

どなたか思い当たる節がありましたらぜひ教えてください。

 

自分ならどう描くか考えてみた

途中から作品に入るのを諦めたので

「自分ならどう組み立てるか」を考えてみてました。

 

公式サイトによると最初はパパだけの話だったところに

後から大人になったケイティの話を追加したらしいですけど

私があの話を組み立てるなら全部ケイティの話にします。

 

叔母さんのシーンと同じく飲み込みにくかったのは

ケイティがあばずれとして成長してたとこです。

ビックリしましたよね??(笑)

かと思ったら突然子供時代の話に戻ったりして

ん?25年経ったの?戻ったの?行き来する話なの?と

途中混乱しました。

 

私なら、最初からケイティ主体の話として進めて

あの可愛い少女がどうしてこうなったのか、

どんな心理的影響があって今孤独なのかをもっと丁寧に描きます。

 

時間の行き来は分かりやすくするために何か小道具を使って

それが新しくなると過去、古くなると現在、と見せるとか

途中一か所あったように大人のケイティが子供の自分とすれ違って

時間が戻っていくとか、そういう見せ方にしたらどうかと思います。

 

エンディングがケイティなのだから

描きたいのはケイティの心の傷と、それを見守るパパの愛のはず。

だったらそこにもっとフォーカスした方が伝わるのではないでしょうか。

時間軸も人物軸もあちこち行き過ぎた気がします。

 

なんて。

映画製作を学んだ訳でもないただの映画好きの妄想ですけどね~。

映画作りを勉強されてる方ならどう思うのかしら??

この映画は良かったですか??

自分が作るとしたらどんな風にしますか??

もしよかったらコメントお寄せ下さい(^^)

 

 

それではまた!

 

【舞台】TOP HAT トップハット来日公演 ネタバレ 感想

こんにちは、やのひろです。

渋谷のシアターオーブでトップハット来日公演を観てきました。

 

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英国人の友達が

「トップハットは素敵よ!」と言ってくれたのがもう数年前。。

いつか見たいと思っていた夢が叶いました。

それではネタバレ含む感想いきます!

 

簡単なあらすじ

ブロードウェイの人気俳優ジェリーは

英国の名物プロデューサー・ホレスの誘いに乗って

ロンドンの新作に出演することを決める。

 

初日を明日に控えたロンドンの夜

ホテルのホレスの部屋でタップダンスを踊っていると

その真下の部屋に泊まっていた美女のデイルが苦情を言いにくる。

一目で恋に落ちたジュリーは翌日から彼女にアプローチし始める。

 

一方、ホレスにはマッジという妻が居た。

彼女は自分が滞在するヴェネツィアにホレスとジュリーを呼ぶ。

ジュリーに紹介したい女性がいるという。

 

美女のデイルは実はそんなマッジの友達だった。

マッジから「同じホテルに私の主人が居るわ」と聞いた彼女は

自分の真上の部屋にいると知りジュリーとホレスを勘違いする。

私を追いかけて来たのは友達の旦那さんだったんだわ!

 

何も知らずにデイルに迫るジュリー。

ジュリーを友達の旦那と間違えているデイル。

夫は友達に手を出してると勘違いするマッジ。

何も知らずにとばっちりを受けるホレス。

 

果たして4人は誤解を解いて

無事ハッピーエンドにたどり着くのか・・・?

 

アメリカのラブコメ、ロンドンで復活!

超王道のボーイ・ミーツ・ガール物。

何の心配もなくニコニコ笑って見守れるハッピーな舞台でした。

 

 この作品は元々は1935年に作られたアメリカの映画です。

 

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お話の中心はロンドンでしたが

実はアメリカで生まれたお話なんですねー

 

アメリカ生まれのラブコメミュージカルと言えば

クレイジー・フォー・ユーを思い出しました。

展開や雰囲気はあれとよく似ています。

 

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ボーイがガールとミーツしてラブがゴーイングするのに

その間にミステイクがあってドタバタ、

最後にはハッピーエンド♪という流れです。

 

っていうか調べたら1935年て

ガーシュウィンが活躍してる時代だった。。

流行ってたんでしょうね、こういうのが。

 

ロンドンで生まれたミュージカルだと

お話がもうちょっと情緒的なんですね。

オペラ座の怪人とかビリーエリオットとか

ストーリーがもっと込み入ってます。

 

それでいくとトップハットはとてもアメリカンな話です。

舞台がNY→ロンドン→ヴェネツィアと移動するのも華々しいですね。

アメリカ産の話なのに紳士的なシルクハットがテーマとは興味深いです。

欧州にルーツを持つ人達の英国への憧れもあったのかな??

 

そんなアメリカンな話が

ミュージカルとして生まれ変わったのはロンドン!

これが本作の面白いところです。

 

パパッと楽しめるアメリカンミュージカルが

美と情緒のロンドンミュージカルの手にかかるとどうなるのか??

ブロードウェイ(NY)とウェストエンド(ロンドン)の

ハイブリッドが楽しめる!というのが一番の魅力だと思います。

 

ロンドンらしい上品な演出

舞台は全体的にベージュやクリーム色のような

柔らかくて落ち着いた雰囲気にそろえられていました。

衣装も淡いグリーンやブルーなど優し色合い。

少ない色数でまとめられているのは

ポスターを見てもお分かりいただけるのではないかと思います。

 

それになんと言ってもダンスが美しい♪

 

舞台を見る前にネットで映画を差探してみましたが

そちらは舞台より少し派手な振付な気がしました。

 

例えばジュリーとデイルが雨宿りしながら踊るシーン。

映画では最後二人は胡坐をかいて座り握手するのですけど

舞台ではジュリーがデイルを引き寄せてキスをします。

 

私はダンスに詳しくないので推測ですけど

ちょっとしたターンの時に飛ぶのか滑るのかとか

手を広げた時にピッとするのかスラリとするのかとか

少しの違いで雰囲気が変わるのではないかと思います。

 

舞台版は流れる水のように、上質なシルクのように

滑らかで美しい動きが盛りだくさんでした。

 

そんな上品な演出に包まれていると

デイルの勘違いで進んでいくドタバタも

コミカルというよりとてもキュート!

 

勘違いしてるデイルがジュリーをひっぱたくシーンも

可笑しいというよりほほえましかったです。

あーあ、、嬉しかったからこそ怒っちゃったのね、って。

でもそれ勘違いだよ~(^^;って。

 

ロンドンミュージカルでは

こういうシンプルなラブコメってなかなか無いので

かえって新鮮に見ることができました♪

ロンドンがラブコメやると上品になるんだなぁ~。

 

カーテンコールは写真撮影OK!

なんと、カーテンコールでは写真が撮れました。

 

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ていうか、カーテンコールがあることに驚きました。

 

ご存知でしょうか。

舞台が終わって幕が降りてから拍手しまくるのは日本の習慣です。

少なくともNYやロンドンでその場面にあったことはありません。

 

海外は上演中の拍手が日本の5倍くらいあります。

バチバチバチバチ!ヒューヒュー!ワーオ!って上演中にやって

キャストが一通り挨拶して幕が降りたらみんな帰ります。

オケが演奏を続けてても関係ありません。さっさと帰ります。

 

私はオケも好きなので最後まで聞いてましたが

終わるころには誰も居なくて

もうお掃除の方がごみを拾ってました。

(余談ですが海外は客席飲食自由。終演後はゴミだらけです。すごい)

 

そんなわけで、終わってからも拍手し続けて

幕が何度もあがりキャストが何度も出てくるのは

とても日本的な行為なんだと思います。

その代わり日本は上演中大人しいですからね。

最後に感激を伝えたいんですよね。

 

この前同じくオーブでみたピピンでは

一度もカーテンコールをやりませんでした。

最後のオケが終わっても幕が上がらなくて

客席からは落胆の声が聞こえました。

私は来日公演だから仕方ないと思ったけど(^^;

気持ちは分かります。

 

だから今回カーテンコールがあるのにびっくり。

日本風にしてくれたのでしょうか。

何にせよありがたい事でした~。

 

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とっても可愛いアメリカン・ロンドンミュージカル。

難しい事は考えず、ただただ幸せになれる作品でした。

 

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見終わったらキレイな空♪

 

それではまた!

【映画】彼は秘密の女友達 ネタバレ 感想

こんにちは、やのひろです。

映画「彼は秘密の女ともだち」を観てきました。

 

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それではネタバレを含む感想いきます!

 

簡単なあらすじ

子供のころからの親友ローラを病で亡くしたクレール。

彼女はローラのお葬式で、ローラのご主人であるダヴィットと

生まれたばかりのローラの娘を守ることを誓う。

 

親友の死から立ち直れない彼女は

夫のジルに勧められてダビットの様子を見に行く。

するとそこに知らない女性が。

「失礼、マダム」と声をかけたら

なんとそれは女装したダヴィットだった。

 

仕方なく話を聞くと結婚前から女装癖があって

それはローラも知っていたとのこと。

今は娘が母親を恋しがるからやってるだけで

落ち着いたらやめると。

 

何とか帰ってくるものの落ち着かないクレール。

ジルには女友達のヴィルジニアと会っていたと誤魔化す。

 

最初の話とは裏腹に女装を止めないダヴィット。

彼はヴィルジニアとしてクレールと会い

クレールもまたヴィルジニアとの関係を楽しみ始める。

果たして二人はどうなるのか・・・

 

女装と同性愛と人間愛と

まず最初に驚いたのは

クレールがダヴィットの女装を激しく非難することです。

 

女装ってそんなにダメかな!?

私だったら、まぁビックリはするけど

「あ、そうなんだー、へぇ・・・お茶入れる?」

くらいで受け流せる気がします。

コスプレとか盛んな国に暮らしてるからなのかな。。(^^;

 

明確には説明されてませんでしたが

亡くなったローラは敬虔なクリスチャンだったようです。

クロスのペンダントをしていたしベッドの上にも十字架があったし。

 

洋物を見る時たびたびネックになることですが

残念ながら日本人の私にはキリスト教の感覚がよくわかりません。

ただ知識として知る限りでは、

キリスト教の根本に近づくほど同性愛などは難しいのですよね。

 

そういう意味では、女装癖がある→もしや同性愛?というのが

禁断の図式として頭をよぎるのかもしれません。

 

そう考えるとローラが女装を知ってたというのも怪しいと思う。

ダヴィットは本当にローラに打ち明けてたのかな?

ローラは冒頭に死んでしまうのでこれはもう誰にも分かりませんけど。

でも嘘をついてるようにも見えなかったんだよな~・・・うーん。。

 

ちなみにダヴィットはがっちりした体つきの立派な男性なので

女装はお世辞にも綺麗とは言い難いものでした。ひげも目立つし。

それでもだんだん見慣れてくると可愛く感じるから不思議。

こざっぱりした格好のクレールに比べたら

うきうき着飾るヴィルジニアの方が女性らしいくらいでした。

 

 

好きなのは同性か、異性か

果たしてダヴィットは同性愛者なのか。

途中クレールがこれを聞くシーンがありました。

 

女装してるダヴィット、つまりヴィルジニアはこう答えます。

「好きなのは女性だよ。今まで男性を好きになったことはない。

 でも試してみようかな。ふふふ」

これをクレールは微妙な表情で聞いていました。

 

ここから先、物語は複雑な展開を見せます。

 

女友達のクレールとヴィルジニア

そろそろ子どもが欲しいと思うクレールとジル夫妻。

女友達だけど本当は異性のクレールとダヴィット。

 

クレールは男と女、友達と親友の夫と自分の夫の間で

ぐらんぐらんに揺れます。

 

特にダヴィット&ヴィルジニアへの気持ちが複雑になっちゃう。

 

友達として楽しい。ローラと一緒にいたときのよう。

ヴィルジニアも信頼してくれている。

でも彼女は亡くなった親友の夫。

彼or彼女を想うことは友情なのか愛情なのか・・・。

 

混乱するクレールをダヴィット&ヴィルジニアも気づきます。

そして自分自身もクレールをどう思ってるのか曖昧になってきて

ついにクレールをホテルに呼び出してしまうのです。ヴィルジニアとして。

 

このラブシーンはインパクトありました。

肉体的には明らかに男と女ですが

つけてる下着は両方女性モノ。

 

つまりこれは男女の行為のようで、パッと見女性同士なのです。

でもダヴィットが同性愛者だとしたら相手は男性であるはずで

見た目は女性同士だけど実際は男女なわけだから

この組み合わせは良いような、ダメなような・・・んん???

 

要するに、好きになったら性別は関係ない、という

強烈なメッセージだと受け取りました。

男だとか女だとか考えるな!と。

この人が好きだと思ったらそれは人間愛だ。

同性だからダメ、異性だから良い、そういうもんじゃないでしょ、と。

 

それをベッドシーンで伝えるところがフランスっぽいですね。

アムール!ジュテーム!

艶めかしいのだけど決して厭らしくない、綺麗なシーンでした。

 

クレールの心変わりによって行為は最後まで及びません。

何がどうなってエンディングに向かうのかは

ぜひDVDでご覧になってください(^^)

 

解釈が色々できそうなエンディング

紆余曲折あって、7年後が映画のエンディングです。

大きくなったローラの娘を学校まで迎えにきたのは

クレールと、ヴィルジニア

彼は女装を続けしかも娘にもそれをオープンにしているのですね。

 

クレールのお腹はよくみると膨らんでいて

どうやら妊娠していることが分かります。

最後は3人で手をつないで帰る、というカットです。

 

さてこのクレールのお腹の子供、父親は誰なのか!

ダヴィット?それともジル???

 

ここは判断の分かれるところだと思います。

監督もわざと曖昧に描いたんじゃないかな。

 

私はジルの子供だと思います。

クレールはあのまま結婚生活を続けていて

約束通りローラの夫と子供を見守って暮らしている。

 

彼女は結婚による愛情も

結婚を介しない愛情も受け入れたんじゃないかな。

もちろん性別を超えた愛情も。

 

夫と家庭を作り上げていく、そちらも上手くやりながら

かつての親友と今の親友の家庭も見守っていくことができている。

 

ダヴィットと再婚して彼を男としても女としても受け入れた、

とも見えるのですけど

ジルと続いてると考えた方がより広い愛情を理解したように思えて

いいんじゃないかなと私は思います。

 

きっと彼女はこれから自分の子供を愛するということも知って

ますます魅力的な女性になっていくのでしょう。

 

またラストシーンのヴィルジニア

それまでと違ってパンツスタイルで登場します。

 

それまでずっとスカートなんです。

ファッションブランドのポスターに出てくるような姿。

一度なんかピンクのぴったりしたドレスで現れて

足を出したいの!と懇願する場面もありました。

 

それに比べて7年後のヴィルジニアはパンツスタイル。

最初に憧れていた如何にも女性らしいスカート姿ではありません。

 

思えば最初のファッションは男性が憧れる女性の姿で

最後の姿は本当に女性として生きている

ヴィルジニアだったんだなぁと思います。

 

クレールとヴィルジニアとローラの娘ちゃん、

それにジルが、幸せに暮らしてると良いなと思うエンディングでした。

 

 

それではまた!

【舞台】海辺のカフカ 感想

こんにちは、やのひろです。

今日は舞台「海辺のカフカ」を見てきました。

 

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イギリスに住んでる演劇好きの親戚に勧められて

それはぜひ、と足を運びました。

 

村上春樹ノルウェーの森を昔読んだ程度、

この作品の原作は読んでいません。

あくまで演劇ファンとして観たので

ハルキスト目線での分析は期待しないでください(^^;

 

それではネタバレを含む感想行きます!

 

お芝居のあらすじ(本とは多少違うのかも)

もうすぐ15歳になる少年、田村カフカ

カラスとの対話によって家出することを決める。

父親の書斎からお金や雑貨をとって高松行きの夜行バスに乗り込んだ。

 

一方、猫と会話する力を持つ初老の男性、ナカタ。

彼は近所の猫探しに協力しているうちに

原っぱにやってくるという怪しい身なりの男性について情報を得る。

 

高松に着いたカフカ

佐伯さんという美しい女性がいる私立図書館に身を寄せる。

そこへ、父親が何者かに殺されたという知らせがはいる・・・

 

ーーーーーー

実際は川の水のように諸々のことが流れていくので

筋道立ったお話が展開していくような舞台ではありませんでした。

川にある大きめの小石を集めるとこんな筋書き、という程度です。

 

そんな小石を集めながら水の流れを感じていて

私が最後にたどり着いた感想はこちらです。

これはあくまでハルキストじゃない80年代生まれの感想だと

あらかじめお断りいたします・・・(ドキドキ)

 

これ・・・つまりエヴァンゲリオン

一緒にするなよ!とお怒りの方がいらしたらごめんなさい。。。

 

ですが決して作品をバカにするつもりは全くありませんので

よかったら最後までお付き合いください(^^;

 

15歳の少年が父親と対立して放浪した末に母親的な物と出会い

現実との接点を見つけて生活に帰っていく

 

ものすごく簡略化するとこういう話に受け止められて

おめでとうおめでとう、と思っちゃったわけですけど

これは別にカフカエヴァに似てるというわけではなくて

”日本人”を物語で綴ろうとするとこうなる、ということだと思います。

 

つまり両方とも同じテーマについて描いてるから

共通したものが核にあっても仕方ないよね、という。

 

日本文学科をギリギリの成績で卒業したやのひろが

大学で学んだことで覚えてる数少ないことの一つは

”日本文学は母と子供の対立と受容の物語である”ということです。

海外だと父と子供らしいのですが、日本で重要なのは母です。

 

これがいろんなところで利用されていて

宮崎駿氏のジブリ作品でも母と子供の関係が重要だし、

ファーストガンダムでも、エヴァでも、進撃の巨人でも

主人公が動く動機になるのは母親の存在なのです。

 

それが私にとってはたまたエヴァに代表されちゃってるだけですので

単純に似てる!ということを主張するつもりはありません。

 

掴みどころのない展開とポエムのようなセリフに

「この話どこに行くのかな?」と思いながら引き込まれたら

とてもシンプルで典型的な、そしてとても重要な、

日本文学の中心部分に向かっていたのだなぁと思った次第です。

 

独特のセリフと美しい演出で彩られていたけど

実は日本人の根本を描いていたのねと、私は受け取りました。

そんな時、私の世代は「エヴァっぽいね」と言っちゃうのかも^^;

 

あと・・・これってオイディプス王

観ていてもう一つ重なった作品はギリシャ神話のオイディプス王です。

父を殺して母と交わるという予言を受けた王子が

その運命を回避しようとするのに結局そうなっちゃう、という悲劇。

カフカくんも形は違いますが似たような道をたどっていました。

 

しかし面白いなと思ったのはその結末。

 

本家オイディプス王では、自分の運命を知ったオイディプスは

わが身を呪って自ら目を刺し、盲目となって国を追われて行きます。

 

ところがカフカくんはいろんな人に助けられた結果

東京に戻って警察に全て話し学校に戻ることを決意します。

 

いいっ!ここが日本っぽい!

なんていうか、ジメっとしてる(笑)

湿度が高い国の物語って感じがします。

 

父殺しの容疑をかけられた上に

母親ほど年の離れた女性と関係を持つって

普通に考えたら大変なことです。平然としていられません。

 

オイディプス王は、それは抗えない運命の所為であって

それに勝てなかった自分の不甲斐なさやら情けなさやらで目を突きます。

もう何も見ないし、何も頼らないという決意の表れのようです。

所詮人間は神の定めから逃れられないのだという

割り切った倫理観が背景にあるのだと思います。

 

一方カフカくんは自分の意志で高松に来ます。

お父さんはいつの間にか死んだし、殺されても仕方のない人だったし

佐伯さんは結局母なのか曖昧だから交わっても問題ないし

男性的な女性や日本兵の亡霊?に助けられて生き延びます。

 

要するになんにも ”定まって” ないんです。

 

自分がどうしようが周りは動いていく。

よくわからない理由で物事は進み、それが自分に影響してくる。

でも同じように、よくわからないうちに助けられることもある。

だから何だかんだ上手くいって現実に帰ることができる。

 

いや~、ほんとに。この感じ好きです。

一神教多神教の違いといいますか・・・。

こういう日本の、八百万の神のお蔭、みたいな曖昧さが

私は大好きです。

 

物事の座標は一つで、善悪がハッキリしている西洋価値観に対して

物事は環境に左右されて、価値基準はさまざまな東洋価値観。

”父を殺し母と交わる”を東洋でやるとこうなるよ、という例に見えました。

 

主演は古畑新之くん。いったい誰かと思ったら・・・

舞台を見ながらカフカ役の俳優さんは本当に子供なのかと思い

お節介にもいろいろ心配しちゃいました(笑)

 

この子、ほんとうに15歳くらいだわ・・・。

こんな若い、っていうかこんな幼くして

この難解な物語、厳しいと有名な蜷川さんの演出、

何よりとっても大人のストーリー。

それに世界ツアーって、いろいろと大丈夫!?

 

それにしてもこの舞台への溶け込み方、凄いなぁ・・・

 

と。

そしたらなんと私の勘違い、彼は24歳の俳優さんでした。

これにはびっくりした!24歳には思えなくて!

 

他の俳優さんはやっぱり舞台の上で「出してる」物があるんですね。

個性とか解釈とか、その俳優さんが持ってるものが「出てる」

 

でも彼は、出しながらも舞台全体を「受け止めてる」ように見えました。

なんていうかな・・・言葉にするのが難しいんだけど・・・。

凸と凹なら凹のほうというか。

カフカ君自信も数奇な道をたどりながら

他の不思議な人たちの物語をちゃんと吸収して劇場に漂わせてる感じ。

 

主役だし、あの難しいお話だし、

彼のお芝居が前面にグワァっとでてきても不思議じゃないと思うんです。

でもそういう感じじゃなかった。

 

だからまだ子供の俳優さんで

周りの演技を受け止める姿勢なのかな?と思ったけど

きっと違うんですね、

いろいろ計算されてそういう姿勢の演技をされてるんですね。

 

水、みたいな・・・。

他の俳優さんやセットなどが調味料とか具材で

彼自身はとてもおいしい湧き水みたいな・・・。

無色透明だけどとても重要で、それ自体素晴らしいのに他を受け止めてる。

それが合わさって本当においしい一皿ができました、って感じでした。

 

彼はいったい何者??と思ったらかつてgoogleのCMで

「水圧で空を飛ぶ!」と言っていた彼でした。

 

見た目が違うから分からなかった・・・!

 

これは嬉しかった!実はCMの時からチェックしてたんです。

何だろうこの子。上手いのか素人なのかどっちだろ?って。

他ではあまり見ない、不思議な魅力のお芝居でした。

 

あーゆーのに出てくる上手い俳優さんって

どこかの劇団に所属してる場合が多いので

あの演出家さんのとこか~なんて思ったりするんですけど

彼は劇団に入ってないし、事務所も知らないところだし、代表作もなく。

 

その後全然表舞台に出てこないので

あのgoogleの子はどこにいっちゃったのかな?って

たまーに想いを馳せたりしていたのです。

 

そしたらこんなところで、こんな大役で再会!!!

うわー、君だったんですか!と一人真顔で興奮しました。

嬉しかった~~(^^)

 

 

アクリルケースに入った世界

ぱっとみて最初に観客の心を揺さぶるのは

あのアクリルケースに入ったセット達だと思います。

 

全ての背景が大きな水槽のようなケースに収められていて

巧みな黒子さんたちによってシーンごとに箱ごと移動されます。

 

樹木や客間、大型トラック、あらゆるものが透明の壁で囲まれていて

それぞれが白々しい蛍光灯に照らされている・・・。

村上春樹文学に漂う”非現実感”が表されているのかなと思いました。

 

いつかカフカくんが大人になったら

あのアクリルケースは消えてすべてのものと繋がるのかな?

とも思いましたが恐らくずっとケースに入ったままでしょう。

 

現代を生きる私たちにとっても世界はまるで一枚隔てた幻のようです。

現実を正確にとらえて向き合えるほど、世の中は単純ではなくなりました。

あれは15歳の少年の物語のようで、

生きてる限り世界との接点を探し回る私たちの物語だと思います。

怖いですね。迷い続ける以外できることはないのでしょうか。

 

冒頭に書いたとおり、英国に住む知人に勧められてこの舞台を見ました。

 

これらの感想は

日本人であり日本で暮らしている私だか感じたものだと思います。

英国の人達はこれをどう受け止めたのか、

新鮮だったのか、日本的だと思ったのか、演劇として優秀だったのか・・・

ぜひ知人に話を聞いてみたいと思っています。

 

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外に出たらとてもきれいな夕焼けでした♪

それではまた!

 

 

【感想】舞台 天邪鬼 by柿喰う客

こんにちは、やのひろです。

今日はずっと見たいと思っていた劇団「柿食う客」を見てきました。

タイトルは「天邪鬼」

期待通り、裏と表が交錯する深いステージで

見終わってからずっと胸の間が詰まったように苦しく

言葉にするのに2日くらいかかりました。

 

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ではネタバレを含む感想行きます!

 

あらすじ

物語そのものを説明するより

劇団のサイトに書かれた紹介分の方がいいと思うので引用しますね。

 

よく学び、よく遊び、よく殺せ。今、壮大な“戦争ごっこ”が始まる。

 

荒廃した世界、混沌とした時代の中で、

無邪気に仲良く“戦争ごっこ”に熱狂するこどもたち。

両手を拳銃に見立て、互いの急所を撃ち合ううちに、

やがて指先から虚構の弾丸を放つようになる。


イマジネーションが生み出したその弾丸は、

ホンモノの人間を撃ち殺し、戦車を破壊し、戦闘機を落とす。
大人たちは、こどもたちのイマジネーションを操る能力に注目し、

能力開発の為に新たな教育システムを採用する。

 

その為に採用されたのが“演劇”。

今やすべての教育機関で、こどもたちは強制的に演劇を学ぶ。

ホンモノの“戦争ごっこ”の為に。

 

何が虚で何が真なのか

誰が本当のことを言っているのかを曖昧にする脚本でした。

 

そもそもタイトルが「天邪鬼」。

開幕前の数分間、現実と観劇の間で既に

「私が演じる役は明らかなる虚偽や矛盾が含まれる」と宣言されます。

 

人物の名前もそれぞれの特性からきているらしく

日和見、天邪鬼、正直、知りたがり、おませ、七光りと

一見しただけで曲者揃いです。

 

「何が真実なのか分からない」という事を

「明らかに作り物である演劇を通して観る」という体験。

何重にもロックされた虚構の空間に閉じ込められたような感覚でした。

 

私なりに何が真実に近いか考えてみた

 ”虚実入り混じる舞台”って言っちゃうと簡単なのですが

それで片づけるのは何だかもったいないので

自分なりに何が本当(に近いもの)なのか考えてみました。

 

まず怪しいのは玉置玲央さん演じる、あまのじゅんやくん。天邪鬼。

前述のとおり本人が「矛盾がある」と言ってるし

劇中でも周りの子たちに嘘つき呼ばわりされています。

 

しかし途中にこんな感じのセリフがありました。

「これが、ぼくが言った初めての嘘でした」

 

私にはこれは真実に見えました。

彼は心からそう言ってるようだ、と。

ということは、彼の不思議な発言は少なくとも

自分の意志で嘘をついているわけではないのだと思います。

 

次に永島敬三さん演じる、しょうじきよし。正直くん。

 

あまの君が前面に出るからオブラートに包まれていたけど

彼も相当不思議なキャラクターでした。

社会に馴染めず、いつもみんなと違う環境に置かれる。

 

最初かれは「劇作家気取り」と言われています。

また途中彼は自分の身を守るために「オオカミが来た」と嘘をいいます。

たくさんのおとぎ話が出てくるので

あぁオオカミ少年なんだなとその時はやりすごしましたが

最後にはっとしました。

 

彼は、オオカミ少年なんだ。

ということは、彼の言ってることは嘘なのかもしれない。

 

思い返したら確かに自分で言っていました。

「100%僕の創作だよ」「物語がほころんじゃうからさ」

そう思ってしょうじ君のセリフはだいたい嘘と思いながら考えると

あちこち辻褄が合うような気がします。

 

つまりこの物語には、虚言を繰る人が2人いる。

しかしあまの君は嘘をついていない。

彼は想像してそれを真実だとしてるだけで、嘘を言ってるつもりはない。

対してしょうじ君は、嘘だと分かって話している。

 

どうやらこの舞台は

「真実ではない」ことを、「嘘」と「想像」とに分けて

演劇という「創造」の中で再現した作品のではないか・・・?

 

「作り物」の中身は所詮全部「真実ではない」

けれどもそれは「嘘」だけでできているわけではない。

 

「想像」と「創造」、そして少しの「嘘」

 

振り返ると 

”演劇は嘘だけど、嘘じゃないよ”、と言われてる気がしました。

 

この”裏の裏の裏の裏”みたいな構造の面白さが

私の拙い文章で伝わってるでしょうか(涙)伝わっててほしい(涙)

あ、でもこれは全て私の想像なので、

つまりは嘘かもしれませんけど。

 

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戦争のある世界と、想像力

キャラクターは5歳の子供たちです。

桃太郎ごっこを戦争に活用しています。

彼らは大人の教育により想像力を具現化できるようになっていて

指を向けてバンと言えば人を殺傷できるようになっています。

 

子供の想像力って面白いですね。

これを見ながら私はこの前見かけた近所の子供を思い出しました。

「俺はタイムトラベルができる!なぜなら俺はルフィだから!」

と叫んでいました。

これも「嘘」ではなく彼にとってはそうなのでしょう。

彼は彼の中だけで彼だけのタイムトラベルを、してるのだと思います。

 

これを見た2015年9月17日は

自民党が進める安保法制が委員会で強行採決された日でした。

5歳児がいずれ戦争の要素となるって無くも無いな、と思うと

単なるお芝居だと心の幕を隔てて観ているのは難しく感じました。

 

彼らは当然のように内部被爆をしているということだったので

これは少し未来のお話だったのだろうと思います。

 

そう遠くない未来、子供は戦争に近い環境で生きている。

戦争ごっこは日常になり、大人が戦争に適するように教育する。

 

そんな中で活用されていたのは「イマジネーション」でした。

日本は子供たちの想像力からくるお芝居を武器に戦っていたようだし

子供たちはそのお芝居で身を守っていました。

 

戦争と関係が深い未来の社会と

それに立ち向かう想像力の力

 

私にはこのお芝居は、そんな対立関係に見えました。

つまり、”社会に対して演劇は何ができるのか”、という問題への

柿喰う客なりの解。

 

それが天邪鬼という作品なのではないかと、私は思っています。

 

天邪鬼なのは誰だ

演劇は、あまの君やしょうじ君のように

嘘つき呼ばわりされてみんなの仲間外れになってるのかもしれません。

 

でも結局はあまの君やしょうじ君によって話が進められていて

進行の中心には「創作」がありました。

 

社会に演劇が役立つのか。

これは人によって意見の分かれるところだと思います。

お芝居なんか見たことない人にとっては無意味でしょう。

 

でも私は

社会を改善していくために必要なのは芸術だと思っています。

芸術だけが社会に前向きな問題提起ができる。

 

ジョレノンがオノヨーコとやったキャンペーン

”war is over if you want it” のように。

RENTに出てくる歌詞

”The opposite of war isn't peace... It's creation." のように。

 

中でも演劇は空間を共にすることでより強力に訴えかけられる、

社会の薬のようなものだと思っています。

 

この作品も

何だかきな臭い現代日本社会の良薬なんじゃないかと

思いました。

 

素晴らしい身体表現と演出

私が一番最初に柿喰う客に興味を持ったのは

主催の中屋敷さんが青山学院のご出身というところでした。

 

私も青学なので言えますが、

正直青学は劇団を作るような雰囲気の学校ではないんです(笑)

なので青学出身で新進気鋭の劇団を率いてるとは

何て変わった方だろう、在学中に出会いたかった!というのが最初です。

 

・・・という印象でようやく舞台を拝見できたものの

「あれっ、青学出身ってもしかして別の劇団さんだったかな?」と

途中で分からなくなるほどそれっぽさが全然なくて。

いや、青学の演劇なんて多分無いから、

青学っぽいお芝居なんてそもそも存在しないんだけど。

 

なんていうか、もっととんでもなく異質なのかと思ってたんです。

ベースがないところから自分の個性でグッと出て来たような。

他の何にも似てないし寄ってないような感じの

ものすごくハマったひとにだけ受けるような雰囲気なのかなって。

 

でも観ていたら、確かに個性的なんだけど凄くどっしりしてるし、

個性だけでグッと来たというよりは

確固たるものがあるような気がしたんです。

 

俳優さんたちが身体だけでいろいろな表現をされてるとき、

人物を入れ代わり立ち代わり演じているとき、

あるお芝居が頭の中をよぎりました。

 

なんだか・・・”もしイタ”っぽい雰囲気あるな・・・。

 

もしイタとは!

青森中央高校演劇部が上演して全国優勝を飾った伝説の舞台

「もしイタ~もしも高校野球のマネージャーが青森のイタコを呼んだら」

で、2014年にはフェスティバルトーキョーにも出た作品である!

作・演出は畑澤聖悟先生。

2015年の東京公演を観劇した私の感想テキストはコチラからどうぞ!(宣伝)

 

フッと思ったんです。なんか似てるなって。

この俳優さんたちの動きを見てると、あの舞台を思い出すなって。

 

そしたらなんと!!!

帰りの電車で柿喰う客や中屋敷さんのことを調べていたらなんと!

 

中屋敷さんは畑澤先生のお弟子さんだったとーーーー!!!

 

しかも青学の後に?桜美林平田オリザ氏から演劇を勉強されたと。

これで納得しました。なるほどなるほど。ふむふむふむ。

中屋敷さんのお芝居には畑澤先生や平田氏の教えが脈打ってるのですね。

 

それにしても全然違うところから興味を持った2つのお芝居が

実は繋がっていたというところに奇妙な縁を感じました。

なんだかありがたい・・・。

演劇の神様が「これも観ておきなさ~い」って勧めてくれてるみたい。

 

最後に、もし私があのお芝居に参加したら

舞台では最後の最後まで桃太郎ごっこが提案されます。

最後はなんだか自分も誘われているようでした。

「君も想像力で戦争に参加する?」と

 

私なら・・・

桃太郎ごっこで戦おうとする子供たちに

もういいから帰ってきてご飯たべなさーい!って

言う存在でいたい。

 

桃太郎の正義は

一見単純で分かりやすいけど、よく考えると幼稚です。

子供が振りかざせる正義ではあるけど

そこにすべてを賭けて良しと出来るほど、

大人は単純じゃないはずです。そう信じたい。

 

彼らの置かれていた争いまみれの環境にも

「もっと大人の解決方法があるでしょ。

 いいからご飯を食べなさいな」

って言えるような。

 

そういう社会がいいし、

そういう人で居れたらいいと思いました。

 

 

それではまた!

【舞台】フランケンシュタイン ロイヤルナショナルシアターライブ2015 感想 ベネティクト・カンバーバッチ&ジョニー・リー・ミラー

こんにちは、やのひろです。

 

ナショナルシアターライブ2015

ベネティクト・カンバーバッチとジョニー・リー・ミラー

フランケンシュタインを見てきました。

カンバーバッチas博士バージョン。

演出はロンドンオリンピックの開会式を担当したダニー・ボイルです。

 

ネタバレを含む感想ですのでご注意ください。

 

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シンプルなホラー物語かと思いきや

フランケンシュタインって・・・あの古くて怖い話のあれ」

と思いながら映画館に向かいましたが、これは私の勘違い。

もっと深い、哲学的なお話でした。

 

始まる前に流れる演出家や俳優達のインタビュー映像でも

「創造主と創造物の関係」を中心にした

普遍的な物語と紹介されていました。

人間とは何か、命とは何か、愛とは何か・・・

緊張感のあるお芝居を通して

観ている人の胸にビシビシ問いかけているような舞台でした。

 

あらすじ

一人の怪物がこの世に生まれた。

体は大きく立派だが顔は醜く、脳は成熟しているのに使い方を知らない。

この怪物を生み出したフランケンシュタイン博士は

恐ろしさのあまり彼を追い出す。

行き場を失った怪物はあちこちを彷徨い、優しい老人の家にたどり着く。

ここで急速に知性を身に着けた彼は、やがて「孤独」を知る。

 

なぜ自分は一人なのか。

なぜみんなに嫌われるのか。

誰かと愛し合うことはできないのか。

 

彼は博士の元に戻り怯える彼に頼み事をする。

「女性の怪物を作ってくれ。彼女と愛し合いたい。

 そうしたらもう二度とあなたの前には現れない」

 

博士はこの頼みを受け入れる。

しかしそれは二人が悲しい未来に向けて歩き出した瞬間であった・・・

 

単なるホラーじゃない・・・!

このあらすじだけで

フランケンシュタインへの印象が変わったのではないでしょうか。

私がまず驚いたのは”フランケンシュタイン”は博士の名前であることです!

え、怪物の方じゃなかったの、と(^^;

 

それに怪物は乱暴者でも愚鈍でもありませんでした。

「善悪はわきまえている」と自ら言う場面も何度かありましたし

幸せになりたいと願っていて、悲しみを感じている。

博士の行為に「俺ですら吐き気がする」と呟く場面も。

 

博士と怪物。

どちらが悪でどちらが善なのか。

人間らしいと呼べるのはどちらなのか。

 

人間とは、何なのか。

 

とても考えさせられる作品でした。

 

人間とは何か

シンプルに見れば、怪人を作ったのは博士ですから

創造主は博士で創造物は怪人です。

 

これを神と人の関係に置き換えると、

命を生み出した創造主・神にあたるのは博士。

博士は人の能力を超えて例外的な命を作り出してしまった。

神になろうとしてしまった、と取れます。 

 

では創造物はというと、怪人にあたります。

私たち人間と同じ創造物であるのは怪人の方で、

本当は創造物・人間である博士は

人間ではない別の何かになろうとしてしまった異物、

とも取れるパラドックス

ここがこの作品の面白いところでした。

 

本来は人間であるはずの博士は別の何かに、

異物であるはずの怪人は人間のようになってくる。

 

それでも、博士には家族がいて彼を愛してくれる人もいる。

ちょっと変わり者だけど社会の一員として居場所があります。

対して怪人には理解者はほぼ居ないし、社会的に見れば異物です。

 

医学と称して命を作ろうとし心を失っていく博士と

愛を求めて暴力的な行為を繰り返していく怪人。

 

いったい何が「人間」に必要なものなのか

どんどん分からなくなって胸が苦しくなりました。

 

名優二人の息詰まるお芝居

印象に残っているのは博士と怪人が取引を成立させるシーンです

 

成立の証として握手を求め手を差し出す博士。

「こうやって手を握って取引を成立させるんだ」

初めての行為に戸惑いながら応じる怪人。

差し出された手を握るだけでなく、自分の方にぐっと寄せます。

はずみで怪人の方に一歩踏み込んでしまう博士。

その時の博士の、はっとした表情。

怪人の切実なセリフ。「よろしく頼む」

 

博士としては自分が事の主導権を握っているつもりだったのでしょう。

そしてまた女性を作るという新しい実験に興奮もしていた。

 

しかしここで怪人に引き寄せられ、信頼されてしまったことで

引き返せない道に入ってしまった恐怖を感じたのではないでしょうか。

まさに point of no return です。

 

またラストシーンも印象的でした。

紆余曲折の後にすべてを失った二人は、北極に行きつきます。

体力が尽き果てる博士を見て怪人は悲しそうに言う。

 

「死んでしまうのか?俺も死ねるのか?

 博士、死なないでくれ。冷たくして悪かった」

 

息を吹き返した博士は息も絶え絶えに言う

「お前は俺が殺す。先に行け、俺が追うんだ」

 

それを聞いた怪人は嬉しそうに光の中へ消えていき、

博士も重い足取りでそれを追う・・・。

 

いやー、こうくるとは!!

予想外でした。美しかった。

怪人が殺されて終わるのかなと思ってました。

 

二人はお互いの生きる目的と希望になったわけです。

「お前を始末する」「お前に追われる」という形の執着として。

それはもしかしたら怪人が求め、また博士が理解しきれなかった

他人への愛情に近いものだったのかもしれません。

 

最初の神と人の関係に話をもどすなら

神と人は、こんな少し風変わりな愛情で

結ばれているものなのかもしれません。

 

ここはキリスト教圏ではない日本人には分かりにくいのかも。

イギリスの方々にはもっと理解できている気がします。残念です。

 

ダニー・ボイルの演出が美しい!!

ダニー・ボイルといえば映画監督、そしてオリンピックの演出ですが

意外にも舞台演出も多く手掛けているようでした。

日本語wikiにはなかったけど

英語wikiにはそのあたりの説明もありました。

 

シンプルなのにとても斬新で、美しい舞台でした。

こんな舞台観たことないな・・・と。

 

例えば、怪人が生まれてくる丸い装置。

粘膜のようで、血が通っているようで、暖かそうで。

恐らく子宮をイメージしていたのではないかと思います。

 

また途中、雨が降って草が茂る場面もありました。

 

本当に水が降るんです!光で水滴を映すんじゃなくて。

舞台が本当に濡れました。あれにはビックリ。

 

草も、多分本当の草です。怪人が食べてましたから。

怪人が、初めて触れる自然に驚きながら喜んでるのが伝わりました。

 

円形舞台にレールが敷かれたシンプルな装置かと思いきや

後半になると下からセットがせり上がってきます。

え、下にそんな大きなセットが格納されてたの!とまたびっくり。

普通なら横から背景を出してきそうなサイズなのに。

 

またそのセットがいいんです。

シンプルで均整のとれた部屋なんだけど、不自然に傾いていて。

博士のゆがんだ日常、崩れていくバランスを感じました。

 

さすが、演劇の国は違うなーと。感嘆しました。

この美術。完璧な演出。そしてそれを活かしきる俳優。

 

こんな上質なお芝居が見に行ける範囲で上演されてるなんて

ほんとに羨ましい。いやもう、ほんとに本当に羨ましいです。

素晴らしかった。

 

 カンバーバッチとミラーは役を交代する

私が見たのはカンバーバッチが博士のバージョンでしたが

彼が怪人を演じたバージョンもありました。

つまり二人は公演によって役を交換していたわけです。

これも面白いですね。

 

作品を見てその試みにも納得しました。

上記の通り博士と怪人は表裏一体のような関係に行きつくので

両方を演じることでお互いへの理解が深まったのではないでしょうか。

また両バージョンをみた観客にとっては

「人間とは何か」というテーマがますます浮き彫りになったのだと思います。

 

私も両方見ようかちょっと迷ったのですが

きっとカンバーバッチの怪人はまた違った印象のはずで

そうすると今回観たお芝居の印象が薄れてしまう気がしてやめました。

 

数年後また機会があったら

今度は別のバージョンを見てみたいです。

その時改めて「人間とは何か」向き合ってみたいと思います。

 

それではまた!

【舞台】 ピピン ネタバレ感想

こんにちは、やのひろです。

ブロードウェイからの来日公演「ピピン」を見てきました。

 

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では今回もネタバレを含む感想、行きます!

あらすじ

不思議な技を次々に繰り出すサーカスのステージ。
ここを率いる女優、リーディングプレイヤーは
素晴らしい演技で面白い物語をお届けして
最後には一生忘れられないエンディングを見せると観客に約束する。

 

そこで登場するのは新人の男優。彼は今日が初舞台だという。

彼が演じるのはピピンという名前の王子だった。

 

"類まれな人生"を探すピピンはあらゆるものを体験するが

どれも空虚で充実感が得られない。

戦争、性欲、革命、芸術、宗教・・・

 

人生の目的を探し続けたピピンが最後に求めるものとは・・・?


古くから描かれている、自分探しの物語

主人公ピピンが自分の人生の目的を探す、と知って

キャンディードとアベニューQを思い浮かべました。

 

どちらも主人公が人生の目的を探してあちこち彷徨った結果

いま目の前にある幸せこそが最も大切だと気づいて

優しくも力強い雰囲気で終わるお芝居です。

こういう自分探し物語は

きっとNYで繰り返し描かれるテーマなんですねぇ。

 

キャンディードやアベQと違うなと思ったのは

1幕の途中に出てくるsimple joyという歌。

シンプルジョイ、シンプルな喜びについて歌ったものです。

 

戦争で功績をあげることこそ充実だと信じて戦場に出たものの

想像以上の過酷な体験に逃げ出すピピンに向けて

サーカスの女主であるリーディングプレーヤーが歌うものです。

 

彼はあらゆるものを持っていたがどれも必要なかった

シンプルな喜びが必要だ

自由を学ばないまま生きていくの?

死を迎えるその日まで!

 

↑こんな歌詞です。

この段階で「シンプルな喜び」や「自由を学ぶ」ことの

大切さを狂言回しである彼女が歌っています。

ピピンは特別な物ではなくて普通の暮らしを求めて逃げた、と。

 

にも関わらずこの後女体に走ってしまうところが

若い男の子らしいんだけど・・・笑

 

ピピンは最後になって日常的な愛情こそが大切なもので

何かにとらわれているから自由があるのだと気づきます。

 

ところが実はこの曲で既に”普通”の大切さを言ってるんですね~。

最後にたどり着く宝物が前半で登場しちゃってる。

 

ただこれは女主が筋書きとして出した宝物なので

これを最後にピピンが自分で選ぶところがとても大切。

 

”普通の幸せ”は他人から差し出されちゃダメなんですね。

自分で気付かないと大人じゃない。

んん~~~、深い!

 

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サーカスで繰り広げられるお芝居

冒頭でピピンは新人俳優ですと紹介されるものの

その後はほとんど「ピピンを演じてる俳優」の顔を見せないので

ピピンピピンのまま、つまり劇中劇の様子を見せません。

 

ところがピピンを助ける未亡人、

キャサリンが出て来たところで変わります。

 

彼女は登場シーンに失敗したり、

セリフの言い方をダメ出しされたり。

キャサリンとして登場するけど、

これは下手な女優が演じてる役なんだよと

観客に繰り返し提示されます。

 

キャサリンは2幕で登場するキャラクターですが

実は1幕目にも出ています。

子供を連れた女ピエロ役で、戦後のシーンでは首の切れた俳優を回収しに来たり。

 

つまり彼女は他のキャラより分かりやすく

「キャサリンをメインで演じる女優役」を演じるわけです。

 

極めつけは暗転を遮って歌いだしてしまうシーンです。

ピピンが「こんな平凡は耐えられない」とキャサリンの元を去ると

どうやらいつもはそこで暗転して終わるらしいシーンを止めて

アカペラでピピンへの愛をうたいだします。

 

「ここに歌はないでしょ」と怒るリーディングプレーヤーにも

「今日まではね」と答えて最後までピピンへの想いを歌います。

まるで、”昨日までのピピン役俳優にはこんなこと思わなかったけど

今日初めて舞台に立ったという新人の彼には心を動かされた”

というような展開。

ピピン役キャサリン役という垣根を超えて、彼への想いが溢れて来た、

そんなシーンでした。


全員が「与えられた役」を全うしている中で

キャサリンだけは自分の意志で行動している。

そして最後にはピピンもその道を選びます。

 

ピピンが筋書きを超えて自分自身で選んだもの

 

ピピンが探した類まれな人生の最終形は

壮大だけれどもバカバカしい「死」でした。

 

女主は彼に、燃え盛る炎に飛び込めと言うのです。

太陽と一体化し永遠に輝けと。

これこそが類まれな、選ばれた人にしかできない、

生きる目的なんだと。

 

みんなが炎に飛び込めとピピンに劇の全うを求める中、

彼は嫌だと役の継続を拒否します。

 

そこに予定外に現れるキャサリンとテオ。

居ても立ってもいられず出て来たようです。

 

怒ったリーディングプレーヤーはセットと俳優を撤収させ

オーケストラの演奏も止めて、ピピン、キャサリン、テオから衣装をとり

一方的にサーカスと舞台の終わりを告げてしまいます。

 

何も無くなり雑な舞台で立つ下着姿の俳優3人。

それはもう「役」ではなくて、人間です。

 

彼らは定められた「役」を降りて

自分の判断で自分が見つけた幸せのために生きることにしたわけです。

 

生きる目的が派手に死ぬことだなんて、本末転倒ですよね。

 

そうじゃない。

自分だけの類まれな人生なんて若いころに夢見る幻想。

そんなのを探し続けてると派手に死ぬことにたどり着いちゃうよ。

身近にある幸せをみてごらん。

それこそずっと探していた”類まれなもの”だよ。。。

 

これは今まで見た”自分探し系”のエンディングのなかで

一番好きでした!!!

女主の言う通り、一生忘れないエンディングだったと思います。

「自分で生きろ」というアメリカらしいメッセージを

かなり衝撃的に、美しく、受け取りました!

 

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次の世代に受け継がれる、リバイバル版ラストシーン

ピピンのラストシーンはリバイバルにあたり変更されたようです。

youtubeで初演版の映像を見た時は

ピピンとキャサリンが暗闇に消えて終わりでした。

テオがCorner of the Skyを歌ってまたサーカスが戻ってくるのは

2013年版に改定されたラストなんですね。

 

このラストがまた、すごくいいと思いました!

 

ピピンの物語はキャサリンというゴールにたどり着くことができた。

でも若者の物語はピピン一人で終わるわけではない。

 

次に青年となるテオに受け継がれて、

彼もまた類まれな人生を探し出す。

きっとテオもあれやこれやと探し求めた結果

穏やかな愛情の大切さに気がついて誰かと結ばれるのでしょう。

 

そうやって繰り返していくのが人間だよ、

というメッセージに受け取れました。

 

サーカスに残って刺激を受け続けるのは、実は難しい。

若い時はそれにあこがれるものだけどが

経験を重ねるとそれより大切なものが見えてくる。

そんな人生の普遍的なものを訴えてるんじゃないのかな。

 

いやーもう何重にも深い!!!

ピピンが自分の人生を見つけただけでも充分なエンディングだけど

ここにテオが加わることで厚みが増すというか

これは繰り返される、という構造になった。

 

これは元々ベトナム戦争のころ上演されたもので

反戦のメッセージも込められているそうです。

 

そう思うと・・・

「争いに憧れても意味ないよ。大事なのは日常だよ」

「若いころは自分探しに焦ってもいずれ気づくときがくるよ」

このお芝居はそういう意味かと。

 

そしてテオのシーンで

「結局はいつの時代も、普通の幸せを大切にしたくなるのさ」

という意味が加わったのだと思います。

 

うまい!さすが!すてき!

あの短いシーンがあると無いとでは大違いです。

んんんー、すごいなぁ・・・

 

すごいぞ、来日公演!


来日公演で楽しめたのは初めてです!

・・・生意気ですみません!

いや、来日公演って難しいんですよ。。

 

ピピンは2013年のトニー賞の時から見たいと思っていたので

来日公演は嬉しかったのですが正直期待してませんでした。

 

というのも。

来日公演というのは俳優さんがイマイチなことが多いんです。

 

ブロードウェイの舞台に立てる俳優さんがとにかくナンバー1で

こういうツアーに出る俳優さんは修行中の方がほとんど。

そういう方が超一級の作品を演じることになるので

作品と演技のバランスが悪くて消化不良になる事が多いんです。

 

ピピンはアクロバットな舞台だとは知ってましたから

これを微妙な演者さんがやったらグズグズになるんじゃないの・・・

と思ったんです。

 

それが!!

今回の来日公演はどうやら素晴らしい方揃いだったらしく!

1曲目終わった時点で気分はNY、

この公演を企画した共同トーキョーに感謝しました。

素晴らしい公演をありがとう、甘く見ててごめんなさい!

 

ピピン役のブライアン・フローレスは

正真正銘新人だったようですが歌も踊りもうまかった。

NYでも主役が新人ということはたまにありますが

みんな超上手いのでビックリします。
彼はこれからNYでも活躍するかもしれません。要チェック!

 

カール王役のジョン・ルービンスタインは

初演ピピンのオリジナルキャスト。わお!!!

youtubeで初演も観ましたけれど、あのクルクルカールの細い彼が・・・。

オリジナルの主役がリバイバル版で父親役を演じるなんて、

粋な計らいですね(^^)

 

おばあちゃん役のプリシラ・ロペスは

コーラスラインでキャシーの初演をされた方!わお!!!

 

途中空中ブランコでアクロバットを披露するシーンがありまして

おばあちゃんヤルゥ!と拍手喝采、

ショーストップになる見せ場なのですけれども

コーラスラインのキャシーって

一人で数分間踊り続けるシーンのあるタフな役なんです。

あれをオリジナルでされた方なら

お年を召されてもアクロバットやれるかも・・・

さすがブロードウェイの俳優さんたちは

鍛え方が違うな~と思わされました。

 

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あと私が好きだったのは継母役のサブリナ・ハーバー!
ピピンでは元は女性役達の補欠だったらしいのですが
いやいや素晴らしいダンスでした!!


彼女のナンバーは最後、

イナバウアーのように上半身を後ろにガバっと倒すのですが
そのしなやかで力強いこと!!!

いったいどんな訓練をすればこんな動きができるのと

始終うっとりして見ていました。

この方でも代役からスタートだったなんて

ブロードウェイって厳しい!!!


フォッシースタイルを継承したダンスと

スティーブン・シュワルツの歌

元の振り付けはかの有名なボブ・フォッシー

振付は一新されましたが担当はフォッシーの後継者である

チェット・ウォーカー。

フォッシースタイルももちろん顕在でした。

 

シンプルな動きなのに最高にカッコいいんですよね!

全身張りつめてるのに、腰だけが艶めかしくクイッと動くとか。

肩だけが動く、足だけが動く・・・

静と動のメリハリが利いてる。

少ない動きでシビれるほどクール!

あー書きながらも思い出されるわぁ。。

 

フォッシースタイルが一番色濃く残っていたのは

やはりGROLYでしょうか。

気の抜けたポワポワした音に乗せて

3人のダンサーが笑いながら踊るの。素敵だった~。

 

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私はRIGHT TRACKも好きでした。

外したリズムと怪しいダンス。

段々うまくなるピピン

2部の導入曲は少しダレることが多い気がしますが

これは物語にぐっと戻れる良いナンバーだと思います。

 

そう、音楽が凄く良いなと思いました。

どれも全部聞きやすいし、歌詞も難しすぎないし。

よく聞くとパターンの幅が広くて全然飽きないんです。

いつもは数曲くらい「これは要るのか?」って曲があるけど

ピピンにはありませんでした。全部好きだった。

 

と思ったら作曲はスティーブン・シュワルツ。

あのウィキッドと同じ人でした!どうりで!

ウィキッドのナンバーもどれもドラマチックですものね~。

ディズニーアニメーションの音楽を担当したこともあるそうです。

確かに1幕のキャラ紹介ナンバー達はディズニーっぽい。

 

私は英語でミュージカルを見る時は

事前に全曲翻訳するようにしてるんです。

字幕を追うのに必死になると演出などが理解しきれないから

歌詞の内容は先に知っておきたいなと。

 

ピピンの曲たちはとても翻訳しやすかったです。

まずメロディーが良いから作業がはかどったし(笑)

歌詞とメロディーの組み合わせがなじんでて

とても訳しやすかったです。

観劇が終わった今でもiphoneに入ったままでよく聞いてます♪

 

 

素晴らしい題材と振付と音楽。

リバイバルはそれに加えて色彩豊かで

サーカスやマジックも観てて楽しい。

まさにエンターテイメント!

それでいて最後ちょっと感慨深く明日への希望が湧く。

本当に良い舞台でした!

見に行けて良かった(^^)

 

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それではまた!