いろいろあります

毎日のいろいろあること。面白い夫と元気な息子の3人暮らし

映画 ワンス ダブリンの街角で 感想 人生の踊り場には音楽が必要

映画館で見れなくて
ミュージカルの来日公演も見れなくて
ずっと気になってました。

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同じ監督が撮った「はじまりの歌」がとてもよかったので
この機にDVDレンタルしました。
ここから感想の中にネタバレあります〜。





これは、人生の踊り場にいる男女が
音楽を分け合って
新しい一歩を踏み出す物語。

前に何があったか、その後どうなったは描かれないから
歩き出すところが凄く際立ってました。


なんかさ、、、
生きてると、成長とか進化とかそういうのばかり入ってくるけど、
実際こういう、一回休み!ってなることはあるよね…

また出てくる人が誰もそれを責めないの。
ちゃんとした仕事につきなさい!とか言わない。
本人も別に悪い状態だとは思ってなくて
その時できることに取り組んでるし。
日本と海外の違いなのかなぁ。
立ち止まってる人への優しい目線を感じました。


最後、彼女は家に来ないわけだけど
あれをどう見ましたか??

私はね、彼女は凄く迷ったんじゃないかと思いました。

行きたいけど、いま行ったら感情に流されてしまうって思って
無理して、辛い思いして、行かなかったんじゃないかな。

ドライブに誘われた時は感情を取って、
それも楽しかったしセッションもよかったし、
いま家に行ったら、その時はまた楽しくても
結果的に二人のこともそれぞれの世界もダメにしてしまうって
そう思って行かなかったんじゃないかな。

彼にはそれが伝わったのかな。
だからピアノを買ってくれたのかな。
だとしたら彼女が歌ってた「私も努力してるのよ」っていうのが
叶ったんじゃないかな…

普段DVDは、やっぱり映画館ほど入り込めなくて
「あー、映画館で見たかった!」と思うんだけど
今回のはDVDなのにポロポロなけちゃって
「あー、映画館で見たかった!!」ってなりました笑

いい歌だったなぁ…
舟で漕ぎ出そう、辿り着けるよ、って。
人生の踊り場には音楽が必要ですよね。
音楽は人生の薬。

「はじまりのうた」を(堪えられなくて)もう一度みた

大好きな映画館、渋谷のアップリンク
見逃した映画特集2015をやっています。
んもう、この企画の切り口だけでステキ。惚れ直す。

 

いくつか見たい映画があった中で
ダントツにもう一度見たかったのがこれです。
「はじまりのうた」

 

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やのひろ的2015年TOP3に入る素敵映画です。

私は基本的に1つのエンタメは1回しか見ないポリシーなのですけど
これはせっかく機会があるならまたスクリーンで見たい!と
いつものマイルールを破ってまで見に行ってしまいました。

 

もうね、とにかくイイのが最初の30分(推定)。
1つの歌を軸にグレタ(キーラナトレイ)とダン(マークラファロ)の
人物背景が描かれるとこです。ここが、めちゃくちゃ、好き。

 

まずあの構成。
物語の鍵になる曲を冒頭にぽーんと見せて
ん?どういうことかな?と思わせといて
時間と人物を行き来しながら背景を説明していく。あの構成。
「あ、そういうこと!」っていうのが2度もくる。
更にはそれが来るたびに曲の深みが増すという仕掛け!!くー!

 

そしてあの曲。なんて良い曲なんだ。

 

最初にグレタが歌う弾き語りver.でも素敵だけども
次にかかるダンのアレンジver.!!
魔法のように動き出す楽器。
輝きだすグレタ。
ぐんぐん広がる曲の世界!

 

もうね・・・私あのシーンで泣けるんです。
音楽に命が宿るようで。。鳥肌ぶわーで涙がぽろーなんです。

 

この映画が言いたいのは
「誰かと気持ちを分かち合う幸せ」
なのだと思います。

 

誰かと繋がりたくてコネクタを大事にしていたダンと
1人で閉じこもっていたグレタの間に
音楽っていう特別なコミュニケーションの橋が架かって
突然に、でも必然のように、気持ちが通い合っていく。
あの感じ。なんて尊いんだろう…。

 

デイヴはグレタの曲をポップスにアレンジしてしまったけど
ダンは最初のあの魔法のシーンからグレタの曲をきちんと解釈していた。
「この歌の世界が分かる」ということで救われたダンと
「私の歌を分かってくれる人がいる」ということで救われたグレタ。

あー…なんて素敵なの。

 

あの二人、ちょっといい雰囲気になるのに恋人にはならないんですよね。
そこがいいなと思いつつ、なんで恋人にしなかったんだろう?とも思いました。
例えばダンがもっと若い男性の設定だったら恋愛発展もアリなんじゃ?って。

 

でも今回見てみてハッとしました。
アルバムづくりが終わってお別れを言うシーン、
グレタとダンが向かい合っててそれぞれのアップが入るとこ。
その二人の目をみて。あぁこれは・・・愛だなって。

 

私を愛して欲しいとか、一緒にいたいとか、
そういう欲求を超えたもの。
相手を尊敬して幸せを願って別れを惜しんで
それでもどこかで繋がってると思える関係。

そういうのをあのシーンから感じました。

 

親子とか子弟とかでも起こり得る、いわゆる無償の愛。
これってある意味男女の愛情よりずっとピュアだと思いませんか。
だって何の見返りも望まないんだもの。


そういう深い深い愛情を描くために
この二人はこの関係だったんじゃないか・・・と思います。

 

愛する誰かと気持ちを分かつ。
これこそが豊かな人生の秘訣だよ・・・。
そんなことを言われた気がしました。

 

あー。。。
見にいってよかった。私の宝物映画です。

今年はブログの筑前煮化を目指します

こんにちは、やのひろです。


新しくブログをやろう!と思った時

ここ数年やっていたサイト解析のアタマがあれこれと働きました。

検索にかかりやすいものは何か

人が欲しがるものは何か

どこの数字をあげるのが効果的か…


その結果、そんな有益なものは自分からほとんど出なくて

サイトは放置気味に。

まさに本末転倒!


そんなこんなしながら色々やってるうちに

Webはそろそろメディアになるべきなのでは?

というところにいまおります。


それってどういうこと?

何すればいいの?

もうかるの?

この辺のことは何もわかりません。


ただ、これまで私がやってきた

「サイトとは数字を見ること」

↑一度これは置いといた方が良さそうだ

ってことだけ今わかってます。


なのでサイトに書くことの制限をもう少し緩くして

色んなことをざっくばらんに書いていきたいと思います。

自分の脳内を言語化する訓練!


サイトの効果を思えば書く内容を絞った方が良いことは分かってますが

自分をそんなに都合よく切り分けることが出来ないので

私が感じたあらゆる事が出てくると思います。

目指すは筑前煮。

色々入っててそれぞれ美味しい、みたいな場所にしたいです。


今後ともどうぞ宜しくお願いします!


やのひろ


【映画】パパが遺した物語 ネタバレ 感想

こんにちは、やのひろです。

今日は「パパが遺した物語」を観てきました。

 

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それではネタバレを含む感想行きます!

 

あらすじ

1989年のニューヨーク。

作家のジェイクは妻と小さな娘の3人とで幸せに暮らしていたが

ある日自分が運転する車で事故を起こし

妻を失い自身も精神的な病と発作を患ってしまう。

しばらく入院して治療にあたるため娘のケイティを妻の姉に預けるが

退院後その姉夫婦がケイティを引き取りたいと言い出す。

娘を失いたくないジェイクはヒット作を生み出そうと躍起になるが・・・

 

一方2014年。

成長したケイティは大学で心理学を学んでいた。

人と深く関わることのできない彼女は男あそびを繰り返し

自身が抱える心の闇に苦しめられていた。

そんな時、父が書いた物語が好きだという男性キャメロンに出会って・・・

 

良い話、良い俳優、だけど・・・

普段はなるべくポジティブな面を見るようにしてるのですが

今日は残念ポイント多めな感想になります。

この映画が好きだった方には不愉快かもしれません、ごめんなさい。

でも残念な映画を見るから素晴らしい映画にも気づけるワケなのでね。

素直に感想をつづっていきます。

 

ストーリーは、美しいです。

親子愛。誰の心にも琴線のあるテーマですね。

しかもタイトルに「遺した」ってあるとおり

絶対にパパは死んじゃってますからね。

こりゃもう人生論的な感動テーマがあるだろうと分かります。

 

俳優さんも、有名です。

ラッセル・クロウアマンダ・セイフライドなんて

どちらか一方の主演でも見たいと思うのに共演とは!

しかもこの二人と言えばレ・ミゼラブル(^^)

どんな絡みになるんだろう~、と思ってました。

 

しかしいざ見てみると。

私はイマイチでした。全くジンとしなかった。

こういう映画は大体泣いちゃうのですけども

珍しくうるっともしませんでした。

 

物語に入り込もうと思っても

醒めてしまうシーンが多くてちっとも揺さぶられない。

ずっと、どうしてなんだろう?と思いながら見てました。

 

監督?編集?脚本?

こんなに良い素材があるのに何故入り込めないのか。

それいはシーンとシーンの流れや

カットとカットの繋がりが

自然に感じられなかったから、と結論付けました。

 

凄く良い人が良い話をしてるのにつまらない、みたいなものです。

話すテンポ、言葉、抑揚などの話し方の所為で詰まらない時。

同じ話でも違う人が話せばもっと面白いのに、っていうのに似てました。

 

あくまで私にとってはそうだった、というだけですけどね。

あの流れでグッときが人ももちろんいらしたのだろうとは思います。

 

例えば、ラスト手前でケイティが叔母さんとお茶を飲むシーン。

 

ケイティは別れたキャメロンに会いに行ったものの諦めてしまい、

叔母さんは離婚して、25年経ってるのかな、こっちも?

とにかく二人とも愛に破れてしんみりとお茶を飲んでいます。

 

これは成長したケイティが自分の保護者といる唯一のシーンでした。

 

それまで大人のケイティはいつも一人で

彼女がどうやって生きて来たのか、生きているのか、説明されてません。

けれどもパパが亡くなった後は

離婚した叔母がケイティを育てたと思われます。

つまり娘と母代わりとの場面なわけですね。

 

そんな人と終盤に差し掛かってようやく向き合っている。。

短いシーンでしたがケイティが自分の成長過程と直面出来たという

重要な意味を持つ場面だったと思います。

 

そこで叔母さんはこう言います。

「男は愛が無くても生きていけるのよ。でも女は違うわ」

そして、それをじっと見つめるケイティ。

 

しゅん・・・。

そうなのかな。。キャメロンもそんな人なのかな。。

でもパパは確かにケイティを愛していたよ。。

ケイティに愛をくれる人は現れないのかな・・・

 

そう思ってみていると次のシーンはケイティの家の前。

ふと見るとキャメロンが階段に座っています。

待っててくれたのですね。

泣きだすケイティ。抱き寄せるキャメロン。

 

 

ここで映画は終わりです!えええええええ!!

意味深な叔母さんのセリフなんだったの!?

 

親代わりだった人が言った「男に愛はいらないのよ」

を打ち消すにはあまりにあっさりしたエンディングでした。

キャメロンはそんな男じゃなかったと思うには説明が足りません。

 

しかし彼が待っててくれるシーン自体は美しかった。

だとしたら、叔母さんのシーンは

もっと前にあれば良かったんじゃないかと

素人ながら思います。

 

例えば、ケイティがキャメロンに会いに行く前とか。

 

ケイティはキャメロンと別れてしまった、自分が悪いと分かっている、

しばらく家に引きこもる、何もできない・・・

 

そんな時叔母さんに会いに行く。

滅多に近寄らない人だけど、本当に愛した人を失った今

とにかく誰か素直になれる人に会いたくて。

 

色々あったけど姪の自分を育ててくれた人。

自分自身も家族のことで傷ついた人。

そんな彼女がくれたアドバイスは「男に愛はいらないのよ」

慰めとも諦めともとれる言葉です。

 

でもケイティはやっぱり諦められない。

自分は女だから、愛が必要だから、キャメロンに会いに行く。

勇気を振り絞って行ったけども怖気づいて引き返してしまう。

もうだめ・・・と思った時に聞こえる思い出の曲。

パパに会いたい・・・!

絶望的な気持ちで岐路に着くと・・・そこに愛する人が。

 

キャメロンはケイティにとって

最高のパートナーに、そしてパパに代わる愛情をくれる人に

なってくれたわけですね、めでたしめでたし・・・

 

この方が美しかったと思います。

叔母さんの悲しいセリフも昇華されると思う。

なんであのエンディングの直前に叔母さんのシーン入れたんだろう?

恐らくは落差を使って印象的にしたかったのでしょうけど

私にはチグハグに感じられてイマイチでした。

 

それぞれは素晴らしい素材だったのだから

もっと上手く組み立てれば良い映画になったと思うんだけどな。。

高級食材をたくさん入れたら味がまとまりませんでした、

というような感じの映画だと思いました。

 

こうなるのはどこの影響が色濃いのでしょう?

監督?編集?それとも脚本??

映画を作る過程を知らないから分かりませんけれども・・・

どなたか思い当たる節がありましたらぜひ教えてください。

 

自分ならどう描くか考えてみた

途中から作品に入るのを諦めたので

「自分ならどう組み立てるか」を考えてみてました。

 

公式サイトによると最初はパパだけの話だったところに

後から大人になったケイティの話を追加したらしいですけど

私があの話を組み立てるなら全部ケイティの話にします。

 

叔母さんのシーンと同じく飲み込みにくかったのは

ケイティがあばずれとして成長してたとこです。

ビックリしましたよね??(笑)

かと思ったら突然子供時代の話に戻ったりして

ん?25年経ったの?戻ったの?行き来する話なの?と

途中混乱しました。

 

私なら、最初からケイティ主体の話として進めて

あの可愛い少女がどうしてこうなったのか、

どんな心理的影響があって今孤独なのかをもっと丁寧に描きます。

 

時間の行き来は分かりやすくするために何か小道具を使って

それが新しくなると過去、古くなると現在、と見せるとか

途中一か所あったように大人のケイティが子供の自分とすれ違って

時間が戻っていくとか、そういう見せ方にしたらどうかと思います。

 

エンディングがケイティなのだから

描きたいのはケイティの心の傷と、それを見守るパパの愛のはず。

だったらそこにもっとフォーカスした方が伝わるのではないでしょうか。

時間軸も人物軸もあちこち行き過ぎた気がします。

 

なんて。

映画製作を学んだ訳でもないただの映画好きの妄想ですけどね~。

映画作りを勉強されてる方ならどう思うのかしら??

この映画は良かったですか??

自分が作るとしたらどんな風にしますか??

もしよかったらコメントお寄せ下さい(^^)

 

 

それではまた!

 

【舞台】TOP HAT トップハット来日公演 ネタバレ 感想

こんにちは、やのひろです。

渋谷のシアターオーブでトップハット来日公演を観てきました。

 

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英国人の友達が

「トップハットは素敵よ!」と言ってくれたのがもう数年前。。

いつか見たいと思っていた夢が叶いました。

それではネタバレ含む感想いきます!

 

簡単なあらすじ

ブロードウェイの人気俳優ジェリーは

英国の名物プロデューサー・ホレスの誘いに乗って

ロンドンの新作に出演することを決める。

 

初日を明日に控えたロンドンの夜

ホテルのホレスの部屋でタップダンスを踊っていると

その真下の部屋に泊まっていた美女のデイルが苦情を言いにくる。

一目で恋に落ちたジュリーは翌日から彼女にアプローチし始める。

 

一方、ホレスにはマッジという妻が居た。

彼女は自分が滞在するヴェネツィアにホレスとジュリーを呼ぶ。

ジュリーに紹介したい女性がいるという。

 

美女のデイルは実はそんなマッジの友達だった。

マッジから「同じホテルに私の主人が居るわ」と聞いた彼女は

自分の真上の部屋にいると知りジュリーとホレスを勘違いする。

私を追いかけて来たのは友達の旦那さんだったんだわ!

 

何も知らずにデイルに迫るジュリー。

ジュリーを友達の旦那と間違えているデイル。

夫は友達に手を出してると勘違いするマッジ。

何も知らずにとばっちりを受けるホレス。

 

果たして4人は誤解を解いて

無事ハッピーエンドにたどり着くのか・・・?

 

アメリカのラブコメ、ロンドンで復活!

超王道のボーイ・ミーツ・ガール物。

何の心配もなくニコニコ笑って見守れるハッピーな舞台でした。

 

 この作品は元々は1935年に作られたアメリカの映画です。

 

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お話の中心はロンドンでしたが

実はアメリカで生まれたお話なんですねー

 

アメリカ生まれのラブコメミュージカルと言えば

クレイジー・フォー・ユーを思い出しました。

展開や雰囲気はあれとよく似ています。

 

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ボーイがガールとミーツしてラブがゴーイングするのに

その間にミステイクがあってドタバタ、

最後にはハッピーエンド♪という流れです。

 

っていうか調べたら1935年て

ガーシュウィンが活躍してる時代だった。。

流行ってたんでしょうね、こういうのが。

 

ロンドンで生まれたミュージカルだと

お話がもうちょっと情緒的なんですね。

オペラ座の怪人とかビリーエリオットとか

ストーリーがもっと込み入ってます。

 

それでいくとトップハットはとてもアメリカンな話です。

舞台がNY→ロンドン→ヴェネツィアと移動するのも華々しいですね。

アメリカ産の話なのに紳士的なシルクハットがテーマとは興味深いです。

欧州にルーツを持つ人達の英国への憧れもあったのかな??

 

そんなアメリカンな話が

ミュージカルとして生まれ変わったのはロンドン!

これが本作の面白いところです。

 

パパッと楽しめるアメリカンミュージカルが

美と情緒のロンドンミュージカルの手にかかるとどうなるのか??

ブロードウェイ(NY)とウェストエンド(ロンドン)の

ハイブリッドが楽しめる!というのが一番の魅力だと思います。

 

ロンドンらしい上品な演出

舞台は全体的にベージュやクリーム色のような

柔らかくて落ち着いた雰囲気にそろえられていました。

衣装も淡いグリーンやブルーなど優し色合い。

少ない色数でまとめられているのは

ポスターを見てもお分かりいただけるのではないかと思います。

 

それになんと言ってもダンスが美しい♪

 

舞台を見る前にネットで映画を差探してみましたが

そちらは舞台より少し派手な振付な気がしました。

 

例えばジュリーとデイルが雨宿りしながら踊るシーン。

映画では最後二人は胡坐をかいて座り握手するのですけど

舞台ではジュリーがデイルを引き寄せてキスをします。

 

私はダンスに詳しくないので推測ですけど

ちょっとしたターンの時に飛ぶのか滑るのかとか

手を広げた時にピッとするのかスラリとするのかとか

少しの違いで雰囲気が変わるのではないかと思います。

 

舞台版は流れる水のように、上質なシルクのように

滑らかで美しい動きが盛りだくさんでした。

 

そんな上品な演出に包まれていると

デイルの勘違いで進んでいくドタバタも

コミカルというよりとてもキュート!

 

勘違いしてるデイルがジュリーをひっぱたくシーンも

可笑しいというよりほほえましかったです。

あーあ、、嬉しかったからこそ怒っちゃったのね、って。

でもそれ勘違いだよ~(^^;って。

 

ロンドンミュージカルでは

こういうシンプルなラブコメってなかなか無いので

かえって新鮮に見ることができました♪

ロンドンがラブコメやると上品になるんだなぁ~。

 

カーテンコールは写真撮影OK!

なんと、カーテンコールでは写真が撮れました。

 

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ていうか、カーテンコールがあることに驚きました。

 

ご存知でしょうか。

舞台が終わって幕が降りてから拍手しまくるのは日本の習慣です。

少なくともNYやロンドンでその場面にあったことはありません。

 

海外は上演中の拍手が日本の5倍くらいあります。

バチバチバチバチ!ヒューヒュー!ワーオ!って上演中にやって

キャストが一通り挨拶して幕が降りたらみんな帰ります。

オケが演奏を続けてても関係ありません。さっさと帰ります。

 

私はオケも好きなので最後まで聞いてましたが

終わるころには誰も居なくて

もうお掃除の方がごみを拾ってました。

(余談ですが海外は客席飲食自由。終演後はゴミだらけです。すごい)

 

そんなわけで、終わってからも拍手し続けて

幕が何度もあがりキャストが何度も出てくるのは

とても日本的な行為なんだと思います。

その代わり日本は上演中大人しいですからね。

最後に感激を伝えたいんですよね。

 

この前同じくオーブでみたピピンでは

一度もカーテンコールをやりませんでした。

最後のオケが終わっても幕が上がらなくて

客席からは落胆の声が聞こえました。

私は来日公演だから仕方ないと思ったけど(^^;

気持ちは分かります。

 

だから今回カーテンコールがあるのにびっくり。

日本風にしてくれたのでしょうか。

何にせよありがたい事でした~。

 

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とっても可愛いアメリカン・ロンドンミュージカル。

難しい事は考えず、ただただ幸せになれる作品でした。

 

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見終わったらキレイな空♪

 

それではまた!

【映画】彼は秘密の女友達 ネタバレ 感想

こんにちは、やのひろです。

映画「彼は秘密の女ともだち」を観てきました。

 

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それではネタバレを含む感想いきます!

 

簡単なあらすじ

子供のころからの親友ローラを病で亡くしたクレール。

彼女はローラのお葬式で、ローラのご主人であるダヴィットと

生まれたばかりのローラの娘を守ることを誓う。

 

親友の死から立ち直れない彼女は

夫のジルに勧められてダビットの様子を見に行く。

するとそこに知らない女性が。

「失礼、マダム」と声をかけたら

なんとそれは女装したダヴィットだった。

 

仕方なく話を聞くと結婚前から女装癖があって

それはローラも知っていたとのこと。

今は娘が母親を恋しがるからやってるだけで

落ち着いたらやめると。

 

何とか帰ってくるものの落ち着かないクレール。

ジルには女友達のヴィルジニアと会っていたと誤魔化す。

 

最初の話とは裏腹に女装を止めないダヴィット。

彼はヴィルジニアとしてクレールと会い

クレールもまたヴィルジニアとの関係を楽しみ始める。

果たして二人はどうなるのか・・・

 

女装と同性愛と人間愛と

まず最初に驚いたのは

クレールがダヴィットの女装を激しく非難することです。

 

女装ってそんなにダメかな!?

私だったら、まぁビックリはするけど

「あ、そうなんだー、へぇ・・・お茶入れる?」

くらいで受け流せる気がします。

コスプレとか盛んな国に暮らしてるからなのかな。。(^^;

 

明確には説明されてませんでしたが

亡くなったローラは敬虔なクリスチャンだったようです。

クロスのペンダントをしていたしベッドの上にも十字架があったし。

 

洋物を見る時たびたびネックになることですが

残念ながら日本人の私にはキリスト教の感覚がよくわかりません。

ただ知識として知る限りでは、

キリスト教の根本に近づくほど同性愛などは難しいのですよね。

 

そういう意味では、女装癖がある→もしや同性愛?というのが

禁断の図式として頭をよぎるのかもしれません。

 

そう考えるとローラが女装を知ってたというのも怪しいと思う。

ダヴィットは本当にローラに打ち明けてたのかな?

ローラは冒頭に死んでしまうのでこれはもう誰にも分かりませんけど。

でも嘘をついてるようにも見えなかったんだよな~・・・うーん。。

 

ちなみにダヴィットはがっちりした体つきの立派な男性なので

女装はお世辞にも綺麗とは言い難いものでした。ひげも目立つし。

それでもだんだん見慣れてくると可愛く感じるから不思議。

こざっぱりした格好のクレールに比べたら

うきうき着飾るヴィルジニアの方が女性らしいくらいでした。

 

 

好きなのは同性か、異性か

果たしてダヴィットは同性愛者なのか。

途中クレールがこれを聞くシーンがありました。

 

女装してるダヴィット、つまりヴィルジニアはこう答えます。

「好きなのは女性だよ。今まで男性を好きになったことはない。

 でも試してみようかな。ふふふ」

これをクレールは微妙な表情で聞いていました。

 

ここから先、物語は複雑な展開を見せます。

 

女友達のクレールとヴィルジニア

そろそろ子どもが欲しいと思うクレールとジル夫妻。

女友達だけど本当は異性のクレールとダヴィット。

 

クレールは男と女、友達と親友の夫と自分の夫の間で

ぐらんぐらんに揺れます。

 

特にダヴィット&ヴィルジニアへの気持ちが複雑になっちゃう。

 

友達として楽しい。ローラと一緒にいたときのよう。

ヴィルジニアも信頼してくれている。

でも彼女は亡くなった親友の夫。

彼or彼女を想うことは友情なのか愛情なのか・・・。

 

混乱するクレールをダヴィット&ヴィルジニアも気づきます。

そして自分自身もクレールをどう思ってるのか曖昧になってきて

ついにクレールをホテルに呼び出してしまうのです。ヴィルジニアとして。

 

このラブシーンはインパクトありました。

肉体的には明らかに男と女ですが

つけてる下着は両方女性モノ。

 

つまりこれは男女の行為のようで、パッと見女性同士なのです。

でもダヴィットが同性愛者だとしたら相手は男性であるはずで

見た目は女性同士だけど実際は男女なわけだから

この組み合わせは良いような、ダメなような・・・んん???

 

要するに、好きになったら性別は関係ない、という

強烈なメッセージだと受け取りました。

男だとか女だとか考えるな!と。

この人が好きだと思ったらそれは人間愛だ。

同性だからダメ、異性だから良い、そういうもんじゃないでしょ、と。

 

それをベッドシーンで伝えるところがフランスっぽいですね。

アムール!ジュテーム!

艶めかしいのだけど決して厭らしくない、綺麗なシーンでした。

 

クレールの心変わりによって行為は最後まで及びません。

何がどうなってエンディングに向かうのかは

ぜひDVDでご覧になってください(^^)

 

解釈が色々できそうなエンディング

紆余曲折あって、7年後が映画のエンディングです。

大きくなったローラの娘を学校まで迎えにきたのは

クレールと、ヴィルジニア

彼は女装を続けしかも娘にもそれをオープンにしているのですね。

 

クレールのお腹はよくみると膨らんでいて

どうやら妊娠していることが分かります。

最後は3人で手をつないで帰る、というカットです。

 

さてこのクレールのお腹の子供、父親は誰なのか!

ダヴィット?それともジル???

 

ここは判断の分かれるところだと思います。

監督もわざと曖昧に描いたんじゃないかな。

 

私はジルの子供だと思います。

クレールはあのまま結婚生活を続けていて

約束通りローラの夫と子供を見守って暮らしている。

 

彼女は結婚による愛情も

結婚を介しない愛情も受け入れたんじゃないかな。

もちろん性別を超えた愛情も。

 

夫と家庭を作り上げていく、そちらも上手くやりながら

かつての親友と今の親友の家庭も見守っていくことができている。

 

ダヴィットと再婚して彼を男としても女としても受け入れた、

とも見えるのですけど

ジルと続いてると考えた方がより広い愛情を理解したように思えて

いいんじゃないかなと私は思います。

 

きっと彼女はこれから自分の子供を愛するということも知って

ますます魅力的な女性になっていくのでしょう。

 

またラストシーンのヴィルジニア

それまでと違ってパンツスタイルで登場します。

 

それまでずっとスカートなんです。

ファッションブランドのポスターに出てくるような姿。

一度なんかピンクのぴったりしたドレスで現れて

足を出したいの!と懇願する場面もありました。

 

それに比べて7年後のヴィルジニアはパンツスタイル。

最初に憧れていた如何にも女性らしいスカート姿ではありません。

 

思えば最初のファッションは男性が憧れる女性の姿で

最後の姿は本当に女性として生きている

ヴィルジニアだったんだなぁと思います。

 

クレールとヴィルジニアとローラの娘ちゃん、

それにジルが、幸せに暮らしてると良いなと思うエンディングでした。

 

 

それではまた!

【舞台】海辺のカフカ 感想

こんにちは、やのひろです。

今日は舞台「海辺のカフカ」を見てきました。

 

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イギリスに住んでる演劇好きの親戚に勧められて

それはぜひ、と足を運びました。

 

村上春樹ノルウェーの森を昔読んだ程度、

この作品の原作は読んでいません。

あくまで演劇ファンとして観たので

ハルキスト目線での分析は期待しないでください(^^;

 

それではネタバレを含む感想行きます!

 

お芝居のあらすじ(本とは多少違うのかも)

もうすぐ15歳になる少年、田村カフカ

カラスとの対話によって家出することを決める。

父親の書斎からお金や雑貨をとって高松行きの夜行バスに乗り込んだ。

 

一方、猫と会話する力を持つ初老の男性、ナカタ。

彼は近所の猫探しに協力しているうちに

原っぱにやってくるという怪しい身なりの男性について情報を得る。

 

高松に着いたカフカ

佐伯さんという美しい女性がいる私立図書館に身を寄せる。

そこへ、父親が何者かに殺されたという知らせがはいる・・・

 

ーーーーーー

実際は川の水のように諸々のことが流れていくので

筋道立ったお話が展開していくような舞台ではありませんでした。

川にある大きめの小石を集めるとこんな筋書き、という程度です。

 

そんな小石を集めながら水の流れを感じていて

私が最後にたどり着いた感想はこちらです。

これはあくまでハルキストじゃない80年代生まれの感想だと

あらかじめお断りいたします・・・(ドキドキ)

 

これ・・・つまりエヴァンゲリオン

一緒にするなよ!とお怒りの方がいらしたらごめんなさい。。。

 

ですが決して作品をバカにするつもりは全くありませんので

よかったら最後までお付き合いください(^^;

 

15歳の少年が父親と対立して放浪した末に母親的な物と出会い

現実との接点を見つけて生活に帰っていく

 

ものすごく簡略化するとこういう話に受け止められて

おめでとうおめでとう、と思っちゃったわけですけど

これは別にカフカエヴァに似てるというわけではなくて

”日本人”を物語で綴ろうとするとこうなる、ということだと思います。

 

つまり両方とも同じテーマについて描いてるから

共通したものが核にあっても仕方ないよね、という。

 

日本文学科をギリギリの成績で卒業したやのひろが

大学で学んだことで覚えてる数少ないことの一つは

”日本文学は母と子供の対立と受容の物語である”ということです。

海外だと父と子供らしいのですが、日本で重要なのは母です。

 

これがいろんなところで利用されていて

宮崎駿氏のジブリ作品でも母と子供の関係が重要だし、

ファーストガンダムでも、エヴァでも、進撃の巨人でも

主人公が動く動機になるのは母親の存在なのです。

 

それが私にとってはたまたエヴァに代表されちゃってるだけですので

単純に似てる!ということを主張するつもりはありません。

 

掴みどころのない展開とポエムのようなセリフに

「この話どこに行くのかな?」と思いながら引き込まれたら

とてもシンプルで典型的な、そしてとても重要な、

日本文学の中心部分に向かっていたのだなぁと思った次第です。

 

独特のセリフと美しい演出で彩られていたけど

実は日本人の根本を描いていたのねと、私は受け取りました。

そんな時、私の世代は「エヴァっぽいね」と言っちゃうのかも^^;

 

あと・・・これってオイディプス王

観ていてもう一つ重なった作品はギリシャ神話のオイディプス王です。

父を殺して母と交わるという予言を受けた王子が

その運命を回避しようとするのに結局そうなっちゃう、という悲劇。

カフカくんも形は違いますが似たような道をたどっていました。

 

しかし面白いなと思ったのはその結末。

 

本家オイディプス王では、自分の運命を知ったオイディプスは

わが身を呪って自ら目を刺し、盲目となって国を追われて行きます。

 

ところがカフカくんはいろんな人に助けられた結果

東京に戻って警察に全て話し学校に戻ることを決意します。

 

いいっ!ここが日本っぽい!

なんていうか、ジメっとしてる(笑)

湿度が高い国の物語って感じがします。

 

父殺しの容疑をかけられた上に

母親ほど年の離れた女性と関係を持つって

普通に考えたら大変なことです。平然としていられません。

 

オイディプス王は、それは抗えない運命の所為であって

それに勝てなかった自分の不甲斐なさやら情けなさやらで目を突きます。

もう何も見ないし、何も頼らないという決意の表れのようです。

所詮人間は神の定めから逃れられないのだという

割り切った倫理観が背景にあるのだと思います。

 

一方カフカくんは自分の意志で高松に来ます。

お父さんはいつの間にか死んだし、殺されても仕方のない人だったし

佐伯さんは結局母なのか曖昧だから交わっても問題ないし

男性的な女性や日本兵の亡霊?に助けられて生き延びます。

 

要するになんにも ”定まって” ないんです。

 

自分がどうしようが周りは動いていく。

よくわからない理由で物事は進み、それが自分に影響してくる。

でも同じように、よくわからないうちに助けられることもある。

だから何だかんだ上手くいって現実に帰ることができる。

 

いや~、ほんとに。この感じ好きです。

一神教多神教の違いといいますか・・・。

こういう日本の、八百万の神のお蔭、みたいな曖昧さが

私は大好きです。

 

物事の座標は一つで、善悪がハッキリしている西洋価値観に対して

物事は環境に左右されて、価値基準はさまざまな東洋価値観。

”父を殺し母と交わる”を東洋でやるとこうなるよ、という例に見えました。

 

主演は古畑新之くん。いったい誰かと思ったら・・・

舞台を見ながらカフカ役の俳優さんは本当に子供なのかと思い

お節介にもいろいろ心配しちゃいました(笑)

 

この子、ほんとうに15歳くらいだわ・・・。

こんな若い、っていうかこんな幼くして

この難解な物語、厳しいと有名な蜷川さんの演出、

何よりとっても大人のストーリー。

それに世界ツアーって、いろいろと大丈夫!?

 

それにしてもこの舞台への溶け込み方、凄いなぁ・・・

 

と。

そしたらなんと私の勘違い、彼は24歳の俳優さんでした。

これにはびっくりした!24歳には思えなくて!

 

他の俳優さんはやっぱり舞台の上で「出してる」物があるんですね。

個性とか解釈とか、その俳優さんが持ってるものが「出てる」

 

でも彼は、出しながらも舞台全体を「受け止めてる」ように見えました。

なんていうかな・・・言葉にするのが難しいんだけど・・・。

凸と凹なら凹のほうというか。

カフカ君自信も数奇な道をたどりながら

他の不思議な人たちの物語をちゃんと吸収して劇場に漂わせてる感じ。

 

主役だし、あの難しいお話だし、

彼のお芝居が前面にグワァっとでてきても不思議じゃないと思うんです。

でもそういう感じじゃなかった。

 

だからまだ子供の俳優さんで

周りの演技を受け止める姿勢なのかな?と思ったけど

きっと違うんですね、

いろいろ計算されてそういう姿勢の演技をされてるんですね。

 

水、みたいな・・・。

他の俳優さんやセットなどが調味料とか具材で

彼自身はとてもおいしい湧き水みたいな・・・。

無色透明だけどとても重要で、それ自体素晴らしいのに他を受け止めてる。

それが合わさって本当においしい一皿ができました、って感じでした。

 

彼はいったい何者??と思ったらかつてgoogleのCMで

「水圧で空を飛ぶ!」と言っていた彼でした。

 

見た目が違うから分からなかった・・・!

 

これは嬉しかった!実はCMの時からチェックしてたんです。

何だろうこの子。上手いのか素人なのかどっちだろ?って。

他ではあまり見ない、不思議な魅力のお芝居でした。

 

あーゆーのに出てくる上手い俳優さんって

どこかの劇団に所属してる場合が多いので

あの演出家さんのとこか~なんて思ったりするんですけど

彼は劇団に入ってないし、事務所も知らないところだし、代表作もなく。

 

その後全然表舞台に出てこないので

あのgoogleの子はどこにいっちゃったのかな?って

たまーに想いを馳せたりしていたのです。

 

そしたらこんなところで、こんな大役で再会!!!

うわー、君だったんですか!と一人真顔で興奮しました。

嬉しかった~~(^^)

 

 

アクリルケースに入った世界

ぱっとみて最初に観客の心を揺さぶるのは

あのアクリルケースに入ったセット達だと思います。

 

全ての背景が大きな水槽のようなケースに収められていて

巧みな黒子さんたちによってシーンごとに箱ごと移動されます。

 

樹木や客間、大型トラック、あらゆるものが透明の壁で囲まれていて

それぞれが白々しい蛍光灯に照らされている・・・。

村上春樹文学に漂う”非現実感”が表されているのかなと思いました。

 

いつかカフカくんが大人になったら

あのアクリルケースは消えてすべてのものと繋がるのかな?

とも思いましたが恐らくずっとケースに入ったままでしょう。

 

現代を生きる私たちにとっても世界はまるで一枚隔てた幻のようです。

現実を正確にとらえて向き合えるほど、世の中は単純ではなくなりました。

あれは15歳の少年の物語のようで、

生きてる限り世界との接点を探し回る私たちの物語だと思います。

怖いですね。迷い続ける以外できることはないのでしょうか。

 

冒頭に書いたとおり、英国に住む知人に勧められてこの舞台を見ました。

 

これらの感想は

日本人であり日本で暮らしている私だか感じたものだと思います。

英国の人達はこれをどう受け止めたのか、

新鮮だったのか、日本的だと思ったのか、演劇として優秀だったのか・・・

ぜひ知人に話を聞いてみたいと思っています。

 

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外に出たらとてもきれいな夕焼けでした♪

それではまた!